札幌市東区の総合病院 天使病院
天使病院の100年史「05拡充期」

100年史

HOME > 天使病院について > 100年史 > 05拡充期

05拡充期

患者は全道各地から 名実ともに充実した総合病院に

高度成長期のこの時代、天使病院も長年の念願であった施設の新しい改築が行われた。
完備された設備と信仰に支えられた心のこもった看譲によって、天使病院は名実ともに充実した地域の総合病院として発展した。
一方、教育面も一段と飛躍した。
また、時代と共に歩む病院として、人びとの心と生活を支える医療機関となった。

1962年(昭和37年)

総合病院の認可を受ける

総合病院へ再出発

昭和30年代後半から同50年までのこの時代、日本は経済大国への道を歩み続け、世界は宇宙時代へ突入した。昭和39年に開催された第18回オリンピック東京大会は、日本の不死鳥ぶりを世界に示し、同47年の第11回冬季オリンピック札幌大会は、札幌を揺るぎない国際都市に発展させ、100万人都市の面目が内外に宣伝された。

天使病院も第2充実期を経て、医療、設備、看護面は更に充実し、昭和37年には待望の総合病院の認可を得、名実ともに東区の総合病院に発展した。

だが、地域に根差した病院のこれまでの道は長く苦しいものだった。それを乗り越えることが出来たのは、もとより病院創立の精神に支えられてのことで、発展の階段を昇るためには、必ずそこに祈りと努力のあとがあった。第2充実期の最後を飾った「産科棟改築」と昭和42年に行われた、「一般病棟を含む本館の改築」の陰にも、長い祈りの時があったことを忘れてはならないだろう。

 

1963年(昭和38年)

産科で三つ子誕生

産科棟に明るいニュース

100_5_triplets.jpg

昭和38年、元気な産声に包まれた産科棟に明るいニュースが流れた。

それは三つ子誕生(写真)のニュースだった。

当時は多胎児でも双生児が多く、三つ子は比較的珍しいケースとしてスタッフはチームを作り見守った。

 

 

1965年(昭和40年)

婦人科ガン手術が行われる

病院と教育機関が共に大飛躍

昭和40年代の国内は、高度成長一色で活気にあふれていたが、天使病院でもこの時期は画期的な飛躍の年代となった。

100_5_Dr.Ogawa.jpgのサムネール画像昭和40年、北大名誉教授小川玄一先生(写真)が産婦人科に着任。その後、小川先生の執刀による婦人科のガン手術が行われた。
この手術によってガンに悩む多くの女性が救われたことはいうまでもなく、後にこの患者たちは互の交流の場として“永治会”を結成した。この会は毎年1回、医師や助産婦を交えて、互いに励ましあい、助けあう場所となり、発会後10年間も元患者たちの大きな支えとなって世人の注目を集めた。
 
病院の内容充実と共に、天使の教育機関もまた充実、発展の道を進んだが、天使女子短期大学に修業年限1年の専攻科が新設された。専攻科は、これまでの天使病院付属助産婦学校が吸収され、保健婦・助産婦の総合的な教育が行われるようになった。
 
また、時代の要請に応えるために保健指導室を開設し、これにより地域の保健所と提携して、妊産婦及び乳幼児検診、育児指導、栄養指導・未熟児・新生児及び成人病の家庭訪問を実施し、地域に開かれた病院として、また、次第に増えつつあった核家族にとっても、力強い存在となった。
 
100_5_internist.jpg一方総合病院としては、整形外科を新設し、内科・小児科・外科・眼科・産婦人科・耳鼻咽喉科の各科の陣容が整い、また南棟が新築されるなど、総合病院として、一段と充実したものとなったのである。
創立当初に比較すると、医療従事者も増加し、医師・保健婦・助産婦・看護師・薬剤師・放射線技師・衛生検査技師・栄養士・事務員・各科学生など、15種以上の職種の人びとが各々の分野を担当する病院となった。(写真は内科回診の様子)

 

1967年(昭和42年)

結核病棟廃止

ひっそりと役目を終える

この時期、発展する天使病院の中で、ひっそりと廃止された病棟があった。病院創立以来、地域の多くの患者を収容した結核病棟である。

死病といわれた結核も、日進月歩の医学の前についに屈した記念すべき廃止ではあったが、多くの医師及びシスターたちの献身的な努力や看護が、この病棟の創立以来の歴史の中に秘められていることを忘れてはならない。

 

1968年(昭和43年)

救急災害病院に指定される

時代に沿った治療を展開

時代はさらに進み、アポロ11号の月面着陸は人びとの関心を宇宙に向けさせ、国内では日本万国博覧会が大阪で開催されるなど、ひたすら繁栄の道を進んだが、それと同時に交通事故や大型災害また心を病む人びとの増加など、社会の暗い部分も次第に広がりつつあった。

天使病院ではそれらの社会現象に対処する体制を整えていたが、昭和43年に救急災害指定病院に認定されたのを機に、札幌市の救急医療体制の一端を担うことになった。

翌44年には形成外科診療をオープンシステムで開始し、増え続ける交通事故の後遺症に悩む人びとの治療に当たることになった。

 

1969年(昭和44年)

分娩数日本一、本館改築

お産の天使 長かった本館新築への道

昭和44年、分娩数が5月だけで300件を越えるという明るい話題で持ちきった。

100_5_babies.jpgこの件数(年間3,118件)は、これまで全国のトップ件数を誇る日赤病院の分娩数をぬくという驚異的数字だった。札幌市民の6人に1人が天使病院で生まれた計算になり、当時は天使病院で産むことがひとつのブームになった

換言すると、天使病院がこれまで生命の尊さ、大切さを母親達に強調した成果にほかならないといえる。

また、この年の12月は、病院中が待ちに待った時だった。

100_5_constraction2.jpg戦前からの全員の夢であった病院本館が改築(写真)された。一般病棟を含む本館の改築工事は地下1階・地上4階の鉄筋コンクリート建築で、先に完成した産科棟の完成以来、全員が待ち望んでいたものだった。長年の祈りの実現を皆喜びあった。現在の天使病院の全容は、シスターはじめ病院関係者の半世紀にわたる長く熱い祈りの結晶だといえるだろう。この時、院内の病床数は過去最高の279床になった。

100_5_New TenshiHP.jpgのサムネール画像のサムネール画像

 

1970年(昭和45年)

浜益村無料巡回診療開始

生き続ける病院創立の精神

天使病院の内容と活動は年を追うごとに充実し、地域住民の信頼は深まっていった。

昭和45年には、当別保健所と浜益村役場の要請で、無医村地区無料巡回診療を開始した。以降、創立の精神の下で続けられたが、平成11年にその役目を終えた。

さて高度成長期の明るさの反面、急激な経済の成長はいつか、どこかでひずみが現れる。この時代も、そのひずみから逃れられず、成人病やストレスによる障害など、心を病む人びとが急増した。天使病院はすでに昭和46年5月に精神科の診療を開始して、心を病む人びとのために対応し、社会の要望に応えていた。
 
疾病は時代と共に変化する。天使病院は常にその変化に応えてきたが、この時代は高齢化社会が進む中で、成人病の予防と治療に心をくだき、心を病む人びとの支えになった時代といえるだろう。

 

1972年(昭和47年)

札幌オリンピック冬期大会へ協力

札幌オリンピック冬期大会、美香保スケートリンク医療救護班として協力

昭和47年2月3日「第11回冬期オリンピック札幌大会」が、世界35カ国、選手1200名を集めて真駒内スピードスケート競技場で幕を開け、11日間にわたって多彩な技が競われた。

昭和41年のIOC総会で道民待望の札幌オリンピック開催が決定して以来、この日を目標に札幌では、市街地の整備、施設の充実を含めた公共投資が積極化した。14の競技場建設と並行し、市役所新庁舎、地下鉄南北線、地域暖房、地下街などがつぎつぎと完成し、市の中心部には高層ビルが林立し、札幌の様相は大きく変貌していった。

札幌オリンピックの成功は、改めて世界へ札幌を強烈に認識させる機会となったが、それはまた、北海道が国際交流の場へ登場する始まりでもあった。天使病院ではオリンピック開催中、美香保スケート場の医療、救護班として多数の看護婦が交代で参加し、協力した。

 

年代 出来事
05拡充期 1962~1975年

メニュー アクセス

アクセス

〒065-8611
札幌市東区北12条東3丁目1-1
駐車場有り
TEL:011-711-0101