札幌市東区の総合病院 天使病院
天使病院の100年史「無料診療所および無料収容所を開設」

100年史

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1931年(昭和6年)

無料診療所および無料収容所を開設

北1条教会内に無料診療所を開設

昭和6年9月、満州事変をきっかけとしてファシズムが台頭し、内外に緊迫した空気が漂って来た。

カトリック北1条教会の敷地内に無料診療所及び無料収容所を開設したのは此の頃のことである。病院から医師、シスター、看護師が出向き、多くの人びとが列をなして診療をうけた。また豊平川の下流東橋の下に多数の貧しい人びとの集落があり、こうした人びとへ献身的な医療活動を始めたのもその延長線上の仕事である。

この頃、社会には結核が蔓延し、多くの死者が続出した。
大正8年結核予防法が施行されて、患・死者の届出がなされて以来、比較的正確に把握できた時期以降でも、結核死亡数は3千を超え、人口1万人につき死亡率30%を越えた。以来、満州事変以降増加の一途を辿り、昭和14年の56.24%を最高として、我国有数の結核都市の汚名を残した。
昭和5年、市立療養所がはじめて専門の療養施設として誕生し、昭和17年白川に国立療養所が出来るまでは、推定5,000人に達しようとする市内の患者達は、本格的な療養を受けようと必死であった。このため天使病院も結核患者で溢れた。
当時の患者の多くは、丘珠、篠路、花畔といった石狩方面からの人びとであったが、こうしたことも対処するため、昭和2年には結核病棟がつくられた。長い病院生活の間にキリスト教の洗礼を受けた人も多かった。
 
さて、こうした天使病院の医療活動と平行してこれを側面から支えてくれた行政側の援助も忘れてはならない。昭和に入ると、明治10年に流行したコレラはもはや見られなくなったとはいえ、公衆衛生上の対処は需要な課題であった。
 
その一つは、排水下水の工事が始められたことである。それまで汚水処理は住民まかせだった。計画都市として出来た札幌もまち並みづくり、道路補修、豊平川治水工事が急を要したので衛生面はどうしても後まわしになった。保健に関する布石は早くからあったが、公衆衛生は立ちおくれていた。30を越す官営工場からの汚水は、創成川、伏古川に排出されたが、下水は素掘りの側溝だったため、各戸の汚水は川まで行かず、地下に浸透し井戸に入り、地下水の豊かさと、清冽さを誇った札幌も次第に汚染されてゆく。本格的下水道は、大正15年より始まった。
上水道は昭和12年に藻岩浄水場が完成。井戸があるから水道など要らないという市民に役所か頭を下げて、つけてもらうという時代であった。
昭和10年、苗穂に塵芥焼却場が出来、その後、続々と近代的処理場がつくられた。
昭和11年2月26日には、東京にいわゆる2・26事件が起こり、日本の指導的地位にある政治家たちが犠牲となった。
 
昭和12年7月に勃発した日中戦争を境に、わが国は戦時体制に入り、翌13年には国家総動員法が公布されて、軍需物資増産のため、国民生活に関係の深い品目の民間消費は制限を受け、経済の国家統制が強まり、キリスト教に対する従来の寛容さは次第に厳しいものに変っていった。このような中で、昭和12年6月、天使病院の経営主体は、社団法人マリア奉仕会札幌支部となった。

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