札幌市東区の総合病院 天使病院
天使病院の100年史「天使保育園認可される(8ヶ月後に太平洋戦争勃発)」

100年史

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1941年(昭和16年)

天使保育園認可される(8ヶ月後に太平洋戦争勃発)

戦争の波が病院にうち寄せる。シスターの拉致事件も・・・

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満州事変、日中戦争と軍靴の音が響くなかで、天使病院は、地域の人びとのために、結核の予防や治療を行い、また貧しい人びとや虚弱な人びとに対して指導と治療を行うなど、地域医療に尽力した。(写真は外来診療の風景)

この地域医療活動は、これまでも福祉活動と表裏一体の関係で行われてきたが、昭和16年には、これまで育児部と託児所を更に発展させた保育園を開設した。

当時は、「産めよ殖やせよ」の国策に沿って、貧富を問わずどの家庭でも子どもは多かったが、貧困や共働きなどで十分な育児も出来ぬ家庭が多かったため、これまでも、それ等の子ども達の施設・育児部と託児所を設けていたが、更に施設の拡張と充実に迫られた。そこで保育園開設の申請を行い、16年4月に許可が下り、天使保育園・後の天使幼稚園が誕生した。この保育園開設により、地域の子どもたちに適切な指導や遊びを与えることが出来るようになった。

しかし世相はますます厳しさを増し、ついに12月8日を迎え、真珠湾攻撃に続く日米開戦のニュースは日本中を巨大な戦争の渦に巻きこんだ。太平洋戦争が始まり、この日から天使病院の新た苦難の日々が始まった。 
 
まず最初の悩みは人員の不足であった。学徒出陣をはじめ働き盛りの男性は全て戦場へと狩り出されたので、病院も例にもれず日を追って男性医師と職員の出征が続き、人員不足は日増しに深刻化した。この深刻化は人員だけにとどまらず、医薬品をはじめあらゆる物資が不足し、ついで食料難が押しよせた。外来・入院の患者のたまの必需品が目に見えて不足し、治療もままらなぬ状態が続いたため、シスター始め職員一体となって必死に医薬品集めにかけ回った。ただでさえ人員不足に加えて、一人二役も三役もこなしている現状の中で、この医薬品集めは、一同にとって大きな試練でもあった。祈りと努力で入手出来た医薬品は貴重で、まるで宝物を扱うように用いられ、また再生できるものは限度いっぱいに使われた。
 
このような状態の中で、ある日突然、ショッキングな悲劇が起きた。
数人の警察官がどやどやと乱入して来て、4人のシスターを拉致していったのである。天使病院は国際的な病院なので、シスター達は国籍を越えて互いに助け合い、祈り、使命に忠実に働いていたのだが、敵国の国籍という理由のみで4人のシスターは拉致されたのだった。
突然の出来事に抵抗もできず、残された者たちは、ただ一心に彼女たちの無事を祈るだけだった。当時を知るシスター・高島はるは、「4人のシスター達は初め仙台に連行され、続いて東京麹町の収用所に収用されたのです」と語っている。 
戦時中とはいえ理不尽な拉致事件は病院中を悲しみに沈ませたが、現実の日常生活は悲しみに暮れてばかりはいられなかった。
 
100_3_farm1.jpgのサムネール画像手不足の病院では、シスター川原・ドクター鵜沢の二人の女医が病院中を駆け回り、休むひまなく献身的な診察と治療を続けた。
当時は、女性が男性同様の力仕事をしなければならなかったが、病院でもシスターたちは本来の仕事と共に戦時下の必要事項である防火のための床下改修などの男の人の仕事などもしたものだった。
またそれに加えて、入院患者のため、深刻な食料難を解決なければならなかった。
100_3_farm2.jpgのサムネール画像当時、入院患者のため、配給の食料だけでは到底足りず、丘珠に土地を借り、シスターをはじめ、病院職員全員が交代で野菜作りをすることになった。疲れた体にむちうち、1時間以上もかかる石ころだらけの道を、毎日リヤカーをひいて通った。作物は、カボチャ、バレイショ、ホウレンソウ、トウモロコシなどだが、 まめだらけのなれぬ手つきで鋤や鍬を握ったものだった。(写真は広大な丘珠農場をわずかな人数で農作業をする様子)
しかし、こうして苦労して作った野菜類も、もともと少ない配給量の不足分を補うだけだから、患者の中には満足しない者もいた。

 

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