札幌市東区の総合病院 天使病院
天使病院の100年史「01草創期」

100年史

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01草創期

病む人々・貧しい人々に一筋の光明 愛と奉仕の心で、茨の道のりを歩む

明治41年の夏、フランスを出航した船での長い旅の後、日本に到着した7人の若い修道女が札幌に降り立った。
キリスト教の精神にもとづく愛の奉仕をするためである。
それから3年後の明治44年9月15日、天使病院は、沼地の芦の原に病床わずか25床を以って始められたが、その医療を通しての奉仕活動は、想像をはるかに越えた茨の道のりとなった。

1908年(明治41年)

7名の修道女が来札

100_1_7sisters.JPG修道女の来日、苦難に・・・

7 人の若い修道女(写真)札幌駅に降り立ったのは、明治41年8月のことであった。

日露戦争後間もない頃で、その時駅頭には30人足らずのカトリック信者が、各自提灯を片手に出迎えたという。

これに先立つ明治38年10月、パリ外国宣教会・函館司教アレクサンドル・ベルリオーズ師(写真)は、ローマに向けて横浜を出発された。当時日本には約6万のカトリック信者が居り、4司教区に分かれていて、すべてパリ外国宣教会の管轄下にあった。しかし北部では、布教に携わる人の数もまた布教費も乏しくベルリオーズ司教の渡航の目的も、その広大な土地で、司教を援助してくれる人々と寄附をしてくれる人びとをさがす事であった。

100_1_belriorz.JPGその船旅の間に、師はフランス人の一紳士の挨拶を受けられたが、その紳士は娘がローマにあるマリアの宣教者フランシスコ修道会に入会していることを打ち明け、年老いた父の伝言を娘に伝えてほしいと司教に依頼したのだった。
司教はその年の12月に同会の本部修道院に赴かれたが、そのシスターはすでに、他の修道院に転任していた。
それから、日本について話が及び、修道会の会長は同会のシスター達が日本の熊本琵琶崎にある癩養療所で働いていると話した。
ベルリオーズ司教は、その修道院を一度訪問した事があると話し、早速、自分の司教区にも修道院を設けて欲しいとの希望を出された。会長はそれに対して快い返事をされたが、まだ、その設置場所及び資金の問題が残っていた。そこで会長は司教に、今のところ金銭の援助はむずかしいが、その解決法をどうするか等をたずねた。
司教は、派遣の内諾を大変喜ばれ、しばらく考慮の後、北海道庁のある、今急速に発展をつづけている札幌に設置を希望する旨を答えられた。
しかし、物質上の問題については、十分な援助の出来ない状態で、自分の訪欧の目的も布教の資金を集めることだということを打ち明けられたところ、会長は、後援者の名前を何人か紹介してくれた。
こうして司教は、全く思いがけずマリアの宣教者フランシスコ会のシスター達を管轄下の布教の新協力者として迎えることになったのである。
会長の紹介状を持って司教は募金の旅に出かけオーストリア、チロル、ハンガリアを経て、カルチア、シレジア、バワリア、ベルギー、フランスまで足を運び、各フランシスコ会で盛大な歓迎を受けられたという。
マリアの宣教者フランシスコ修道会本部が札幌で事業所を開設することを正式に承諾したのは、司教がローマを訪れた3年後の明治41年のことである。
こうして遠い異国にやって来たのは、院長のシスター・マリー・ド・ラ・グアダルーペ、シスター・マリー・デニー・ド・ランファン・ジェズ、シスター・マリー・サルバトリス、シスター・マリー・パンクラチオ、シスター・マリー・テクラ、シスター・ウゼフ、シスター・ジャンビエ、の7名のシスターであった。
彼女達は故郷を離れ、遠い異郷の地にあっても寂しくはなかった。
それは、彼女たち一人ひとりの心の底に、精神的・物質的に悩む人びとのために、キリスト教的愛の奉仕の必要性を痛感し、自らの名誉と地位を投げすて、一途にその道を邁進された創立者・マリ・ド・ラ・パッションの精神が力強く受け継がれていたためであった。
さて、7名のシスター達が初めて借りた一軒の家は、ビール会社の近くの北3条東2丁目の辺りであった。
彼女達の日本での生活は、先ず字引を片手に日本語の勉強からで、それに加えて、日本の風俗、習慣、道徳になじむことは並大抵ではなかった。
当時を語るエピソードとして、おぼつかない日本語で、日常の必需品を買い求め、あるときは鶏肉を買うためにその鳴き声を真似たり、ニンジンを買うためにウサギの食べる真似をしたりした苦労話がある。100_1_marry.JPG
当時の修道日誌には次の様に記されている。“院長のシスター・マリー・ド・ラ・グアダルーペ(写真)は慣れない気候でたびたび病気にかかったが、それにもめげず仕事を続けていた”。
7人のシスター達は数ヵ月前から、近所の女性達にフランス語、英語、刺繍、裁縫、音楽等を教え始め、大変忙しい日々を過ごしていた。
1910年(明治43年)10月6日、フランシスコ会フルダ管区のアレキシス師、オイゼビウス師、ヒラリウス師、ゲラルド師、ロック師の5人の司祭方が札幌に着任。
シスター達は刺繍や祭服を作りながら同時に病院を始める為の準備に追われていた。彼女達は環境を良くする為に、病院内に庭を作りたいと望んでいた。
もうすでに土地も手に入れ、支払いもすまされていた。
フランシスコ会の院長は大変寛大に修道女たちを援助された。
こうして3年間の日本でのさまざまな苦闘は報いられ、明治44年の9月15日、7名のシスターによって天使病院は創設され、社会事業としての医療事業の第一歩が踏み出された。

 

1911年(明治44年)

診療所の開設(現在の天使病院)

野原の真ん中にできた洋館建ての病院

100_1_kinold.JPGのサムネール画像のサムネール画像さて、天使病院創設を語る上で忘れてはならない方が、ドイツ人の札幌教区長キノルド師(写真)である。

師が札幌教区長として札幌に来られたのは、明治38年のことである。当時札幌は、仙台教区内に含まれており、函館の司教がキノルド師を札幌に招請されたという。ベルリオーズ司教が、マリアの宣教者フランシスコ修道会の会長に札幌に事業所開設を依頼したものの、一時は計画が行きづまり、こうした困難な状況の中、いつもベルリオーズ師教を助け、事業所として具体的に病院計画を推し進めたのは、他ならぬキノルド師であった。師はすでに明治39年頃には病院建設の構想をもっていたようで、新しい大きな敷地に建てることを計画された。

明治44年3月末、シスター達は、最初の借家から市内北15条東1丁目の風呂屋に移り住んで間もなく、現在の東区北12粂東3丁目(当時、札幌郡札幌村大字新川添23番地)に病院建設の工事か進められたのである。シスターたちには、屋根裏に質素な部屋が作られたが、厳寒の北海道を知る人には、それが何を意味するかはわかるであろう。

明治44年9月中旬病院は完成し、アレクサンドル・ベルリオーズ司教自らその建物を祝別された。2千平方㍍の土地に木造2階建100_1_puratanasu.JPGの洋館が建ち、内科診療を主とし、病床数25床からの出発であった。 9月14日の北海タイムスには、慈恵病院開設広告と題して『今般當教會ニ於テ天使病院ヲ設立シ專ラ慈善ヲ旨トシ九月十五日ヨリ左記患者の診療ニ從事ス 天主公協會』と天使病院開設の告知広告が掲載された。これは、開設の意気込みを伝えるものであり、また、当時としては、このような告知広告は珍しく、その意味でも大変に興味深いものがある。 

明治44年といえば、札幌村の人口が約5千人、戸数は1千戸余りで、創立当時、村人たちは「異国人たちの頭は最低だ。こんな野っ原に病院を建てたって誰も来ることはあるまい」といって笑っていたそうである。

当時札幌で大きな病院といえは、札幌病院や北辰病院であったが、病室は畳敷きであり、こうした中でベッドが設備された天使病院を村人達がわらじ履きで見学に訪れたという。まさに時代の流れを感じさせる話である。そして、「尼さんが案内してくれた。今度病気になったら、あそこへ行こう」などと話し合っていたという。 しかも当時、医療施設らしい施設の無かった札幌村にあって、天使病院の誕生がどれほど村人達の心の支えになったかは測り知れないものがある。

100_1_jinrikisya.JPG創立当時の天使病院の周辺には家は皆無に等しく、病院が12条側に出来、その向いの8条側は一面のトウモロコシ畑で、病院の前にただ一筋の国道があり、道の向い側は帝国繊維の広い地所で、そこには何頭もの放牧された牛がいとものんびりと草を食べていた。また病院の正面以外には道がなく、他の三方は村人の歩く細い小路が続いていたというから、今日では想像もつかない。

1912年(明治45年)

伝染病室17床を開設(一般病床も増床)

貧しく病む人びとへ医療奉仕、数々の社会事業もてがけて・・・

天使病院が建てられた札幌村は、当時の札幌の中にあっても、貧しい人びとの住む地域であり、その生活は想像をはるかに越えるものであった。

創立当時の天使病院は、マリアの宣教者フランシスコ修道会の設立者であるマリ・ド・ラ・パッションの「愛によって真理に生きる」のことば通り、貧困の中に生活する人びとへの医療活動に終始したといっても過言ではない。こうした人びとは昼夜の別なく病院にやって来た。深夜、戸板に乗せて6、7人で交代しながら病人を運んで来て、はげしく玄関のベルを鳴らしたこともまれではなかった。
またある時は、死にかけた子どもを背負って、わらじ履きや、ゴム靴ばきで、何里もの道を、夏は太陽に照りつけられながら、冬は吹雪の中を、やっと病院にたどり着いたものの、子どもの顔はチアノーゼになっており、すでに手おくれで、ついに不帰の客となり、子どもの遺体を再び背負って、今来た道を帰ってゆく家族の人を涙ながらに見送ったことも度々であった。
貧しく病む人びとのために無料で診療し、またこの頃に伝染病が蔓延したが、貧困故に治療も受けられない人びとに無料で治療を施し、収容したのであった。
愛と奉仕の精神をもって医療を施す天使病院の存在はまさしく、貧しく暗くすさんだこの人びとの心に灯された光であったに違いない。医療を通して彼女達は生命の貴さと生きる喜びを人びとと分かち合ったのであった。
 
明治44年の病院開設以来、患者数も増加し25床のベッドがたちまち満員となり、僅か7名の修道女達の手では不足を感じるほどになり、一同はひたすら神の御栄えのために己れを無にして努力した結果、創業の翌年には、早くも増築の必要に迫られた。
こうした増築に伴い、伝染病棟17床を設け、病院としての設備を整えてえていくことになる。
 

100_1_zenkei.JPGのサムネール画像のサムネール画像のサムネール画像

1913年(大正 2年)

外科の診療開始

100_1_people.JPGのサムネール画像

大正2年には外科の診療を開始したが、いつも満員であった。
石狩川の治水工事が始まった頃、けがをした労務者が戸板にのせられて運ばれて来た。
しかし麻酔の技術が現在ほど発達しておらず、手術の時などは、日本人の2倍もあるような外人の看護婦3~4人に押さえられてメスが入れられたという話も残っている。

 

1922年(大正11年)

放射線装置設置

ドイツ人技師来院

大正11年には、診察室の改築が行われた。

それに伴い放射線科を設置、ドイツ人技師が天使病院を訪れた。

1923年(大正12年)

養護施設(現在の天使の園)を開設

100_1_genkan.JPGのサムネール画像数々の社会事業も手がける

大正11年頃、入院治療を受けていた患者が出産後間もなく死亡。乳飲み子を抱いて途方にくれている父親の姿を見かね、子どもを病院の一室に収容したのがきっかけで、育児部が開設された。

この育児部には34人の子どもが次々と収容されたが、これがその後、広島村に移転した現在の養護施設・天使の園である。

 

1924年(大正13年)

病院附属看護婦養成所開設

愛情に満ちた看護活動の礎

大正13年10月、授産の目的と他方天使病院勤務の看護婦のため看護婦養成の講習を開始した。

1回の卒業生は7名であったが、北海道庁の看護婦試験に全員合格し、うち1名は更に産婆試験にも合格という好成績を修めた。
 
そして、ここにも一つの逸話がある。
職員の一人三浦たみさんは産婆・看護婦そして伝道婦もかねていた。彼女は眠る間も休む暇もない程働き、つねに患者のそばで親身になって尽くしていた。ただただ患者を心から愛し、神の為にその労苦を捧げていたので、患者達も彼女を愛し慕っていた。彼女は57歳で病を得、神のもとに召されていった。彼女の死は病院にとっても大きな痛手となり、またぽっかりと穴のあいたような寂しさを皆の心にあたえたという。
 
今日天使病院は道内でも屈指の産科施設を有する病院として発展を見ているが、その陰には、こうした人びとの愛情に満ちた看護活動が礎としてあるのである。
年代 出来事
01草創期 1908~1925年 01草創期

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